尾木 洸

どうも尾木です。よろしくお願いします。

それは夏のイデア

それは夏のイデア

最近すっかり蒸し暑くなって冷房の染みた布団が至高となる季節が到来してきました。毎年のごとく異常気象が起こ今年は全国区で強烈な夕立が立て続けに発生しているそうです。例に漏れず私も古本屋帰りに次男と奴に遭遇ました。それはひどいもので傘などなんの役にも立たない無力な棒きれにしてしまった。我々は早々に自身の無事よりまだ壊れてはいない傘の無事を選択し、要は雨を避けることを諦めて帰途につきました。もちろん本と携帯は庇いつつも急ぐことをせず悠々ともはや胸を張って帰りました。更なる傘の技術開発について議論をしながら。

ここまで書いておきながら実は私は夕立が好きなのです。夕立は人を高揚させる力を持っています。それは都市人間が目の当たりにできる最も強力な自然の脅威であるからなのでしょうか。それらの脅威に直面した先祖の遺伝子が何かを私の精神に訴えているかのようです。もちろん夕立の魅力は脅威だけではないのです。情景も夏の趣があってよいです。それ「夕立を予感させる入道雲に地をたたく雨音、湿った土埃の匂い、身体を気負わせる雷鳴、汗を冷やす蒸して冷たい風、夕立が上がった後のラテアートのように漂う雲、無限の宙を偲ばせる深藍と最後の輝きを放つ茜色の雨上がりの夕焼け」は夏のイデア

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この画像は夕立とは直接関係ないがイメージの参考として。本の表紙みたいなものです。幕張の浜は夕方美しいのでおすすめです。遊泳は禁止なのであしからず。

あとがき

 

いや~すっかり夏ですね。最近は特に夕立が多くて多くて。なんだか夕立の魅力を書きたくなってしまいました。でも夕立に惹きつけられている方は案外多いと思っています。なぜって夕立以外にも多くの類義語がありまして通り雨やにわか雨、驟雨、村雨、肘笠雨などあらゆる表現がされているからです。惹きつけられるからこそ名前を付けて誰かに伝えたいという気持ちが類義語の数に表れているのではないだろうか。実際の所は特に日常生活で言語化の必要があったからかもしれないし、私の知らない細かい使い分けがあるのかもしれない。しかし解釈一つで誰か不幸になるわけでもなし私の勝手である。

ところで私の夏の幻想(記憶が美化されたとは認めたくはないがたぶんそうであろうもの)は奥多摩です。ちなみに春は鎌倉か勝浦、秋は京都、冬は菅平か松本。閑話休題、私の幻想である奥多摩の露天風呂で聴いたひぐらしと夕日は特に美しかった。その日は友人とキャンプに来ていたのだが、その日も夕立が降ってテントと地面の間に雨水がたまって水のクッションができていたのを覚えている。天候が不安定で当初の目的だった星空は拝むことができなかった。今でもこれらの幻想は脳裏に焼き付いている。断片的で脈絡もない話に付き合わせてしまって申し訳ないのだが、私が言いたかったのはこういうことだ。

「幻想が脳裏に焼き付くとは変な話であるがこれが思い出というやつなのだろう。」

皆さんの思い出はどこでどのような情景だったでしょうか?もしよければ教えて下さい。行ってきます。